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リズと青い鳥 

リズと青い鳥」のネタバレ感想を書きます。(以前、ふせったーで描いたものに加筆修正したものです)

以下ネタバレを含むものとなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

リズと青い鳥」は、オーボエ奏者の鎧塚みぞれとフルート奏者の傘木希美、その二人の関係の変化を描いた映画です。
 この映画は、「響け!ユーフォニアム」シリーズ(原作小説、「響け!ユーフォニアム」「同2」「同3」「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編」「同 後編」「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話」「同 ホントの話」及び、TV版アニメ「響け!ユーフォニアム」1期、2期)の続編に位置付けられています。原作は、「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編」「同 後編」ですが、「リズと青い鳥」は希美とみぞれに関する部分のみを映像化し作品として構成し直したダイジェスト版だと言えると思います。同シリーズが黄前久美子の視点を通して吹奏楽部全体を描いた群像劇であるのに対し、「リズと青い鳥」は二人の関係だけを描かれている点が、本作品をシリーズ中で異色の存在としています。したがって、続編ではあるものの、その手法として外伝に近い印象があり、シリーズ全体を把握しなくても(もしくは全くの未見でも)十分に楽しめる内容となっています。これは、「劇場版はファンサービス」という姿勢を貫いていた京都アニメーション作品としては珍しい存在です。

 映画は、彼女たちが高校三年生の5月中旬から8月の終わり頃までを描いています。しかし、音楽室の時計が光が反射して見えないように、その時期が明確に描写されることはありません。
 ストーリーらしいストーリーはほとんどありません。
 彼女たちが属している吹奏楽部は、コンクールで全国大会金賞を目指しています。ですが、そういった描写は二人の関係を描くためには不要なため、本映画では省かれています。しかし、「本番」という言葉だけは大きな意味を持っています。本番とはコンクールの演奏のことを指します。彼女たちは三年生であるため、コンクールが終わると部活を引退しなければなりません。つまり、最後の「本番」は部活動の「終わり」を意味します。この「終わり」が、進路が不安定な高校三年生にとっては、様々な意味を持ってきます。
部活動の「終わり」
仲間との「終わり」
音楽活動の「終わり」
モラトリアムの「終わり」
今の生活の「終わり」
一心不乱の日々の「終わり」
関係の「終わり」
 それら全ての「終わり」は、続けていく意志さえあれば乗り越えられるものも多いのですが、まだ未熟で弱い存在の彼女たちにとっては、それは圧倒的な「終わり」なのです。

 希美は「はやく本番で吹きたい」と言います。
 それは、好きな曲のソロが吹けること自体が嬉しいという無邪気な自信ともとれますが、それ以上に、希美には「練習とは本番のためにしているのだ」という意識が強くあるからではないかと思われます。希美がフルートという楽器が好きであることは確かですが、それはあくまで「本番」ありきであり、強い言い方で言うと「結果」や「評価」のため演奏するという側面はあるかと思います。それは、希美が1年の時に、いくら練習をしても報われないからといって部を辞めたという行動にも現れています。その姿勢は「ユーフォニアムが吹ければそれでいい」と部に残った田中あすかと対照的に第1楽章(アニメ1期及び2期、原作では「響け!ユーフォニアム」、「同2」、「同3」)で描かれています。希美にとって「本番」は目的であり、なくてはならない必然なのです。
 一方で、みぞれにとって「本番」は「来なければいい」ものです。
 みぞれは希美が辞めていった部活で結果を求めず、黙々と練習をしてきました。みぞれは練習が好きです。練習というより、オーボエを吹くという行為自体が好きなのでしょう。映画ではあまり描かれていませんが、みぞれが基礎練習を厭わず、時間をかけて行なっているシーンが何度も出てきます。それは、なかなか成果が出せず焦っている他の部員(葉月など)と対象的に描かれています。みぞれは、表現するためではなく、機械のように正確に演奏するために基礎練習を繰り返します。正確に演奏するためですらないかもしれません。みぞれは成果を求めていないからです。みぞれには他者がほとんど存在しません。みぞれにとっての他者とは希美だけです。そして、希美はおそらくみぞれのオーボエを評価してこなかったことでしょう。そんなみぞれが他者からの成果や評価を求めるわけがありません。みぞれにとって、「本番」は必然でも評価を与える場でもなく、単に「終わり」の一つの形なのです。
 みぞれは「終わり」を恐れています。そして、みぞれが恐れている「終わり」とは「希美との関係の終わり」。それだけです。
 「本番」は時期が来ると必ず来る「終わり」ですが、その他に突然来る「終わり」もあることをみぞれは知っています。彼女たちが1年生の時、希美は部活を辞めています。その時に二人の関係は一度終わっています。希美はみぞれに何も告げずに部活を去ります。その時、みぞれは「終わり」は突然に来るのだと、心に深く刷り込まれます。希美は二年生の夏から秋頃?に部活に復帰、二人の関係は再開します。
 ですが、希美の復帰後、みぞれは常に「終わり」を意識することとなります。「私にとってはずっと今」あのセリフは「終わり」に向き合い続けたみぞれの心の叫びでしょう。
 映画は、朝早く学校に来たみぞれが希美を待つシーンから始まります。
 あのシーン、みぞれにとっては、ただ希美が登校して来るのを待っているシーンではない気がします。今日は「終わり」ではないことを確認しようとしているシーンなのです。希美の顔を見てはじめて、みぞれは今日は「終わり」ではないことを確認するのです。それから、ようやく音楽室へと二人で向かい、練習を始めるのです。
 のぞみはそれを毎日繰り返しているのです。毎日、「終わり」に怯えながら、希美が来るのを待っているのです。
 映画は、みぞれがはじめてオーボエで自分の思いをオーボエで表現したあの合奏シーンをクライマックスに、終幕へと向かっていきます。
 映画は、最初のシーンと同じ音楽室へと向かうシーンで終わりを迎えます。しかし、みぞれは一人で音楽室に向かいます。その日、音楽室に希美は来ません。図書室で二人は顔を合わせているにも関わらずに、です。
 このシーンを「終わりが来てもみぞれはオーボエを吹くのだ」と捉えるか、あるいは「彼女たちの関係は形を変え終わらないのだ」と捉えるか。この映画を「ハッピーエンド」と見るか「ハッピーエンドに見せかけたもの」に見るか、一つの分かれ目になる気がしています。
 彼女たちは映画の最後に学校を去っていきます。
 二人は同時に「本番が楽しみ」だと言います。みぞれだけでなく、希美の中でも、その言葉の意味は変化しています。その変化は「終わり」から目を背けるものでも、恐れるものでもない、とても強いものです。彼女たちの物語はその後も続いていきます。この映画がハッピーエンドであるか、そうでないのかとか、そもそも意味がないのかもしれません。
 みぞれ、かわいい。