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SSSSグリッドマンを見ました。

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SSSSグリッドマン(以下グリッドマン)を見ました。
全編通して見た今でも、第1話のBGMが薄い静かな雰囲気がとても印象に強く残っていて、おそらくその印象はクライマックスに近いあたりまで作品を支配していたように思います。その作品を覆っていた静けさは「閉塞感」につながっていて、登場人物の一見無責任に感じられる感情がこもっていないような「声」とともに、とても「今」に感じました。

以下ネタバレ感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グリッドマン世界にとって怪獣とはなんなのか。
世界を覆う霧の向こうには常に怪獣が、背景のようにのしかかっています。しかし、住人たちにはそれは見えず、その影に怯えることもありません。怪獣は街を壊し、人を殺し、家を、ビルを壊します。しかし怪獣は役目を果たすと消え、ビルや家は元どおりとなり、人の記憶からも消えさります。グリッドマンの怪獣は決して「生活」を「世界」を壊すことはありません。
グリッドマンの怪獣は、「生活」を壊し「世界」を壊す円谷プロの怪獣とは明らかに異なります。
円谷的怪獣とは異なり、グリッドマンの怪獣は「見えない」のです。見えないと書くと「いや、ネロンガとかサァ……」とか面倒になりそうですね。グリッドマンの怪獣は多くの人たちにとって「存在しない」のです。不可視であり、不可知なのです。対するヒーローも、その立ち位置は円谷的ヒーローとは異なるものとなります。しかし、怪獣と相対するポジションであるというところだけは変わっていません。
怪獣とは何なのか。

その問いに対する答えは物語が進んでもなかなかはっきりと語られません。常に疑問詞がついた状態で語られていきます。それがグリッドマンという物語の最大のミステリーであり、前半はこの謎を中心に話が進んでいきます。そして、必然的にヒーローであるグリッドマンの存在も謎のままです。従ってグリッドマンもその中の人も沈黙せざるをえません。世界の人々が見えない怪獣を語る言葉を持ち得ないように。
この物語の序盤はミステリーの形態をとって進みます。
世界にとって、怪獣は、その出現によってただ人を殺す(消す)だけです。そして、その事実を知る主人公は、その犯人を突き止めるために行動しています。怪獣は単なる凶器でしかありません。物語の序盤において、怪獣とグリッドマンの戦いは、劇中劇に過ぎず、ただ人が殺されていく、あるいはそれを食い止めるという現象を象徴しているだけに過ぎません。円谷プロ的な怪獣とヒーローの敵対関係は、象徴として効果的に利用されているといえます。
さて、グリッドマンは創作ジャンルとしてはミステリーであり、怪獣は凶器に過ぎないとすると犯人である新条アカネの「動機」はなんなのでしょうか。
僕がグリッドマンを見たときに、真っ先に連想したのが、ドラえもんの「独裁スイッチ」であり「もしもボックス」でした。
どちらもその寓話性とインパクトで有名なエピソードなので知っているものとして話を進めます。
新条アカネは「独裁スイッチ」を押すと発射されるミサイルの代わりとして怪獣を作り、世界へ送りだします。そして、怪獣は「独裁スイッチ」で殺された人を消えたかのように見せかけるために世界を再編します。まるで、「もしもボックス」に「あの人がいない世界にしてください」とお願いしたかのように。

「独裁スイッチ」という物語は、世界の全ての人間を殺してしまったのび太が誰もいなくなった世界泣き叫ぶという形で幕を閉じます。「もしもボックス」という道具は、願いごとが実現している世界を創造し願い主を送り届けるシステムであると仮定されます(知らんけど)。どちらも、誰もが胸の内の黒い感情から「欲しい!」と思う道具であるとともに、結果として孤独となってしまう禁断の道具ということをその寓話性から、あるいは直感から多くの人が知っています。もし、それらの道具を手に入れ使用してしまったとしたら、道具の使用者はその世界では唯一の絶対者としての神となるとも言えるし、世界は複雑性を失い薄っぺらい書き割りのようになってしまうでしょう。
世界の多様さ複雑さが怖いものと感じてしまう思春期において、「世界は書き割りのようなニセモノに過ぎないのではないだろうか」「世界に人間は自分だけなのではないだろうか」また逆に「自分は誰かの夢に過ぎないのではないだろうか」という考えは、自分の無力感や万能感を根拠に割と誰もが一時は描く妄想だと思うのですが、こういった妄想と「独裁スイッチ」と「もしもボックス」の描く世界観は親和性が高いと思います。こういった妄想は他者とのコミュニケーションを重ね、世界と交渉を続け、社会と関係を築いていく中で現実味がなくなって消えていくのですが、そう出来なかったが故にそういった妄想に囚われてしまう人もいます。
僕は、ひろゆきが名付けた「無敵の人」とはそういう人なのではないかと感じています。失うものが何もないという状況が、全く逆の「無敵」という言葉と結びついてしまうのは、そういう誰もが感じていた神に似た傲慢な「孤独」を思い起こさせてしまうからではないでしょうか。
新条アカネの身勝手で無差別な殺人の「動機」は、「無敵の人」が犯行に及ぶそれと同質のものに思えてしまいます。
彼女は可愛い女の子で胸も大きくてお金持ちでちょっとオタクなところもあって友達も多くてモテて幼馴染みもいます。アニメにおいて見た目や属性は重要で、つい、そういう要素に流されがちですが、もしそれらの要素を少しだけ変えたとしたら、例えば、新条アカネが貧乏だったとしたら、また感じ方は違っていたことでしょう。彼女はとても「無敵の人」と近しいところにいると思います。

でも、実際には新条アカネは神であり、彼女の孤独は本当に神の孤独だったわけで、「無敵の人」に共通する社会的な困窮も新条アカネにはない以上、「無敵の人」と見るのは強引かもしれません。しかし、物語を支配している閉塞感とあいまって、僕にはやはり同質のものに思えてしまいます。

物語の後半はミステリーとしての性格を失います。「誰でも良かった」という動機、超越的な凶器では推理は成立せず、ミステリーとなりえないからです。
前半では力を持たなかった円谷プロ的な構図が中心に据えられ、トリガーお得意のバトルが物語を占めていきます。そこに「神殺し」という葛藤はありません(神とは超えるべき存在であるという哲学がトリガーにはあるからかもしれません。割とそういう話多いし)。

アンチくんの存在意義をめぐる葛藤や、謎の怪獣少女、どういう設定かよくわからないアレクシスケリブや、無口だけどやたら存在感あるキャリパーさん、最後まで自分の意思がなかった響、あまりに無責任な大人や六花のお母さん、なんでいたかわからないメガネ君など、いろいろありつつ、物語は「神の死」でもって終りを告げます。
そして、最後、神を本当の意味で救おうとするのは六花でした(……というか六花ってキャラの名前、アニメに多くない?六花といえば「夏雪ランデブー」なのに)。

これは孤独な神(無敵の人)を救うのは、コミュニケーションしかないという示唆でもあると思います(結果、救えませんでしたが)。
グリッドマンにおいて、六花とアカネだけが声優の演技の質が違います。アニメらしいというより、ささやくような、独り言のような、二人だけ妙にリアルな演技。
その異質さからも、グリッドマンは、アカネと六花の、そう多くはないなにげない会話のための物語なのだと考えられます。

だいたい書きたいこと書いたし疲れたから終わる。