「アニメを見ないでアニソンをかけるDJは死んだほうがいい」とかいうDJ論と呼ばれるものについて
まず最初に。
こんなことに言うのはDJのなかでもアニソンDJだけなので、「DJ論」と言わずに「アニソンDJ論」と呼んだほうがいいと思います。それで色々と少し平和になります。
さて
何ヶ月かごとにツイッターのタイムラインを騒がせるこの手の話題ですが、なぜ繰り返し話題になるかと言うと、結論から言うと、アニソンDJに自分の考えがないからです。それは言い過ぎじゃないか!まるでアニソンDJがバカみたいじゃないか、訂正しろ!とか言われて、クラブでいきなり殴られるとこわいので、「公で自分の考えを言わない人が多いから」くらいに訂正しておきます。
だいたいこの手の話題が出ると、
「アニメ見なくても好きな曲、いい曲ならかければ良い」
「いや、アニメが好きでアニソンDJやってるなら見るべきだ」
「あのアニメ好きなんですねとかお客さん言われたらどう答えるのだ」
「DJ論とか嫌いなDJ叩きたいだけだろ」
「週40本見ろ」
「死ね」
「DJなんて人それぞれ」
と一時的にタイムラインに自称DJ論とやらが蔓延し、アニソンDJ以外のDJの人たちが気づいて正論を書き始めたり「これだからアニソンDJは……」と言い始めた頃には、当のアニソンDJたちは飽きて「#DJ論」というタグをつけて今日食べた海鮮丼の写真やテキーラの写真を貼り始めるのです。
毎回です。
なんて、生産性がないんでしょう!!!
そして、なんて中身がないんでしょう!!!
こんな中身のない状態を見て、「DJ論とか言うやつのDJは聞きたくないね」とか書いて悦に入ってるやつとか、どんだけ薄っぺらいんでしょう!!
と、マックで女子高生が言っていました。
いや、本当にね。DJ論とか言いながら、ただの水掛け論でしかないことに気づいてないんなら、本当にやばいですよ。頭が。悪い意味で。
と言ってました。マックで。
ちょっと書いてすっきりしたので、ここで終わりたいんですが、ここで終わると、水掛け論に灯油かけて終わりみたいなエントリーになってしまうので、もう少しだけ書きます。
DJのやってることって、まぁ異論はあるかもですが、大きく分けて二つ
選曲 と ミックス
この二つな訳です。
ミックスをどう定義するのか?というのは難しいところだと思うんですが、仮に「今の曲から次の曲へとつなぐ技術」と定義してみましょう。つまりそれ以外は全て「選曲」の問題になります。
さて、それを踏まえて本題に移りますが、ようは「アニメを見てないアニソンDJがDJをすると影響があるのか?」ということですよね。
常識的に考えて、アニメを見ていようが見ていまいが、ミックスには関係ないですよね。
アニメ見ていようが見ていまいがBPM135の曲と180の曲はロングミックスできません。同じく、カットインの良し悪しもアニメ見てるか見ていないかには関係ないですよね。だって、ただの技術だもん。そんなの関係ないに決まってるじゃん。
アニメを見ていようが、アニソン自体の音質もBPMも何も変わりません。「さすがはあのアニメを愛するアニソンDJのかけるアニソンは重みが違う」とか言いますが、それはプラセボです。同じ環境同じ機材同じ音量でかけて、ボタン押す人が変わっただけで音が変わるわけありません。変わるんなら、パイオニアは反省したほうがいい。
となると、これは選曲の問題なわけです。
DJが次にどの曲を選ぶのか?という選択には、様々な要素が絡み合い、それこそ「選曲術」なんて本が1冊、それだけで書けちゃうくらいなわけですが、その選曲に「そのアニソンの本編であるアニメを見ているか否か」によって影響があるか否か? と言う問題なわけです。
で、結論から言うと、あります。
選曲に限ると、影響はあります。
アニメを見ているか見ていないかで選曲に影響は出ます。
アニソンDJの選曲には、曲自体がもつ情報・BPMやコード進行や曲調やジャンル……そう言った情報の他に、その曲がアニメ本編でどのように扱われたのか?ということやそもそもどんなアニメだったのか?と言うことが関わってきます。
そういう楽曲以外で選曲する手法を「◯◯つなぎ」って言います。
アニメの監督つなぎ、声優つなぎ、制作会社つなぎ、そういうwikiでわかる情報のつなぎ方もありますが、「作中で女の子がゲロを吐くアニメつなぎ」「青い髪の女の子が不憫なアニメつなぎ」「ク◯アニメつなぎ」「パンツが白のアニメつなぎ」「夢オチアニメつなぎ」……さまざまな「◯◯つなぎ」があるわけです。そういうので曲を選曲して繋いでいくのも、アニソンDJの醍醐味じゃないでしょうか。
そういうのをなんて言うのか知りませんが、まぁ「アニメつなぎ」って言いましょうか。
アニメ見ないと、アニソンDJ特有の「アニメつなぎ」とか呼ばれる選曲ができない
んです。
「見ているアニメ以外のアニソンをアニソンDJはかけるな」というのは、「アニソンDJとは、アニソンの楽曲自体の情報だけでなく、その本編であるアニメの様々な情報も含めて選曲すべきである」ということなのです
「アニメつなぎ」が大事なら、アニメを見てDJしたほうがいい。
結論なので、わかりやすいように字を大きくしました。
これを、炎上しやすいように書くと「見ていないアニメのアニソンかけるDJは死ね」となります。そんだけの話です。
じゃあ、こういう疑問が出てきますよね。
ところで「アニメつなぎ」って大事なの?
さぁ、どうなんでしょう。
どんな意味・効果があるんでしょう。
レコード針の比較をしました。
レコードの時代が来ています。
そこでウチにあるレコード針の比較をしました。
比較したレコード針は4種類
SHURE M44-7 針圧2g
SHURE whitelabel(以下WHBL) 針圧2g
ortofon OM Nightclub S 針圧3g
同 リード線をオーディオテクニカAT6101に交換したもの 針圧3g
です。
ターンテーブルはSL1200mk-3、ミキサーはallen&heath XONE:92
これをオーディオインターフェイス(steinberg MR816csx)でDAW(studio one 3)DISTANCE & J:KENZO "THE OFFERING"(chestikai001)を取り込み比較しました。
以下はその波形です。
まずは同じゲインで取り込んだ波形です。
上から
SHURE M44-7
SHURE whitelabel(以下WHBL)
ortofon OM Nightclub S
同 リード線をオーディオテクニカAT6101に交換したもの
の順です。以降、並びは全部同じです。
スネアのみの波形です。
M447のゲインがやたら大きいことがわかります。
これをDAWでノーマリングしたものが以下になります。
スネアのみ
微妙に波形の形が違いますね。これが表現力の違いでしょうか。
次にそれぞれのサンプルの同一箇所のループをグライコで見たものです。ピークキープにしたので、上部のグラフ線を参考にしてください。
微妙に超高音域の落ち方や、中音域の山の形が違う気がします。これが音の豊かさの違いでしょうか。
このあと、4種類のサンプルをループしながら矢継ぎ早に切り替え、スピーカーやヘッドホンで聴き比べてみました。
結果としては、正直、僕の耳では違いがわかりませんでした。少なくともブラインドテストでわかる自信は僕にはありませんでした。
というわけで、レコード針はそんなに違いわかんないし、シェルリード線変えてもオーテクAT6101くらいならよくわかんないーという結論に僕はなりました。
ですので、家ではWTBL、クラブではOM Nightclub sを使おうかなーって思っています。
次回は、PCDJのヴァイナルコントールで針によってで音は変わるか? を検証したいと思います(しません)
追記
とはいえ、ゲインの違いはかなり大きいので、針ごとにきっちりゲインを調整するのは現場では重要かと思います。またここでは測定していませんが、間違った針圧だととんでもない音になるので、そこも注意しましょう。
また、今回の測定では、左右のピックアップの差はオーディオインターフェイスで調整しています。測定中、それなりに左右のゲインさはあり、印象としてはSHUREの針の方が左右ゲインのズレは大きく個体差があると感じました。気にする人は手持ちの針の左右ゲイン差はチェックしてもいいかと思います。
リズと青い鳥
「リズと青い鳥」のネタバレ感想を書きます。(以前、ふせったーで描いたものに加筆修正したものです)
以下ネタバレを含むものとなります。
「リズと青い鳥」は、オーボエ奏者の鎧塚みぞれとフルート奏者の傘木希美、その二人の関係の変化を描いた映画です。
この映画は、「響け!ユーフォニアム」シリーズ(原作小説、「響け!ユーフォニアム」「同2」「同3」「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編」「同 後編」「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部のヒミツの話」「同 ホントの話」及び、TV版アニメ「響け!ユーフォニアム」1期、2期)の続編に位置付けられています。原作は、「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 前編」「同 後編」ですが、「リズと青い鳥」は希美とみぞれに関する部分のみを映像化し作品として構成し直したダイジェスト版だと言えると思います。同シリーズが黄前久美子の視点を通して吹奏楽部全体を描いた群像劇であるのに対し、「リズと青い鳥」は二人の関係だけを描かれている点が、本作品をシリーズ中で異色の存在としています。したがって、続編ではあるものの、その手法として外伝に近い印象があり、シリーズ全体を把握しなくても(もしくは全くの未見でも)十分に楽しめる内容となっています。これは、「劇場版はファンサービス」という姿勢を貫いていた京都アニメーション作品としては珍しい存在です。
映画は、彼女たちが高校三年生の5月中旬から8月の終わり頃までを描いています。しかし、音楽室の時計が光が反射して見えないように、その時期が明確に描写されることはありません。
ストーリーらしいストーリーはほとんどありません。
彼女たちが属している吹奏楽部は、コンクールで全国大会金賞を目指しています。ですが、そういった描写は二人の関係を描くためには不要なため、本映画では省かれています。しかし、「本番」という言葉だけは大きな意味を持っています。本番とはコンクールの演奏のことを指します。彼女たちは三年生であるため、コンクールが終わると部活を引退しなければなりません。つまり、最後の「本番」は部活動の「終わり」を意味します。この「終わり」が、進路が不安定な高校三年生にとっては、様々な意味を持ってきます。
部活動の「終わり」
仲間との「終わり」
音楽活動の「終わり」
モラトリアムの「終わり」
今の生活の「終わり」
一心不乱の日々の「終わり」
関係の「終わり」
それら全ての「終わり」は、続けていく意志さえあれば乗り越えられるものも多いのですが、まだ未熟で弱い存在の彼女たちにとっては、それは圧倒的な「終わり」なのです。
希美は「はやく本番で吹きたい」と言います。
それは、好きな曲のソロが吹けること自体が嬉しいという無邪気な自信ともとれますが、それ以上に、希美には「練習とは本番のためにしているのだ」という意識が強くあるからではないかと思われます。希美がフルートという楽器が好きであることは確かですが、それはあくまで「本番」ありきであり、強い言い方で言うと「結果」や「評価」のため演奏するという側面はあるかと思います。それは、希美が1年の時に、いくら練習をしても報われないからといって部を辞めたという行動にも現れています。その姿勢は「ユーフォニアムが吹ければそれでいい」と部に残った田中あすかと対照的に第1楽章(アニメ1期及び2期、原作では「響け!ユーフォニアム」、「同2」、「同3」)で描かれています。希美にとって「本番」は目的であり、なくてはならない必然なのです。
一方で、みぞれにとって「本番」は「来なければいい」ものです。
みぞれは希美が辞めていった部活で結果を求めず、黙々と練習をしてきました。みぞれは練習が好きです。練習というより、オーボエを吹くという行為自体が好きなのでしょう。映画ではあまり描かれていませんが、みぞれが基礎練習を厭わず、時間をかけて行なっているシーンが何度も出てきます。それは、なかなか成果が出せず焦っている他の部員(葉月など)と対象的に描かれています。みぞれは、表現するためではなく、機械のように正確に演奏するために基礎練習を繰り返します。正確に演奏するためですらないかもしれません。みぞれは成果を求めていないからです。みぞれには他者がほとんど存在しません。みぞれにとっての他者とは希美だけです。そして、希美はおそらくみぞれのオーボエを評価してこなかったことでしょう。そんなみぞれが他者からの成果や評価を求めるわけがありません。みぞれにとって、「本番」は必然でも評価を与える場でもなく、単に「終わり」の一つの形なのです。
みぞれは「終わり」を恐れています。そして、みぞれが恐れている「終わり」とは「希美との関係の終わり」。それだけです。
「本番」は時期が来ると必ず来る「終わり」ですが、その他に突然来る「終わり」もあることをみぞれは知っています。彼女たちが1年生の時、希美は部活を辞めています。その時に二人の関係は一度終わっています。希美はみぞれに何も告げずに部活を去ります。その時、みぞれは「終わり」は突然に来るのだと、心に深く刷り込まれます。希美は二年生の夏から秋頃?に部活に復帰、二人の関係は再開します。
ですが、希美の復帰後、みぞれは常に「終わり」を意識することとなります。「私にとってはずっと今」あのセリフは「終わり」に向き合い続けたみぞれの心の叫びでしょう。
映画は、朝早く学校に来たみぞれが希美を待つシーンから始まります。
あのシーン、みぞれにとっては、ただ希美が登校して来るのを待っているシーンではない気がします。今日は「終わり」ではないことを確認しようとしているシーンなのです。希美の顔を見てはじめて、みぞれは今日は「終わり」ではないことを確認するのです。それから、ようやく音楽室へと二人で向かい、練習を始めるのです。
のぞみはそれを毎日繰り返しているのです。毎日、「終わり」に怯えながら、希美が来るのを待っているのです。
映画は、みぞれがはじめてオーボエで自分の思いをオーボエで表現したあの合奏シーンをクライマックスに、終幕へと向かっていきます。
映画は、最初のシーンと同じ音楽室へと向かうシーンで終わりを迎えます。しかし、みぞれは一人で音楽室に向かいます。その日、音楽室に希美は来ません。図書室で二人は顔を合わせているにも関わらずに、です。
このシーンを「終わりが来てもみぞれはオーボエを吹くのだ」と捉えるか、あるいは「彼女たちの関係は形を変え終わらないのだ」と捉えるか。この映画を「ハッピーエンド」と見るか「ハッピーエンドに見せかけたもの」に見るか、一つの分かれ目になる気がしています。
彼女たちは映画の最後に学校を去っていきます。
二人は同時に「本番が楽しみ」だと言います。みぞれだけでなく、希美の中でも、その言葉の意味は変化しています。その変化は「終わり」から目を背けるものでも、恐れるものでもない、とても強いものです。彼女たちの物語はその後も続いていきます。この映画がハッピーエンドであるか、そうでないのかとか、そもそも意味がないのかもしれません。
みぞれ、かわいい。
リズと青い鳥
アニメーションには動く快楽という側面があるように思う。
本来は動くはずのない「絵」が動くという驚き、そこからくる喜びもまたアニメーションの良さであり、他のジャンルにはない快楽であるように思う。
アニメには、声、音、光、動き、キャラ、物語、ストーリー、演出などなど、数々の要素がある。それぞれは普段は別々ではなく、一体にまとめて受け止め楽しむものではあるが、ふと、そのそれぞれ1つ1つの要素に見入ってしまう瞬間がアニメにはある。
その魅入られる瞬間そのものは意図された「演出」の場合もあるし、そうではないものもある。
宮崎駿作品には大きなアクションに入る前に、「ため」の動きだけを魅せるシーンがよくある。流れていくストーリーを力任せに変える力のあるアクションシーンには、その直前の「ため」を魅せることで、説得力を持たせることができる。「絵が動く」アニメーションならではの魅力が、物語を大きく変えていくのは、純粋に快楽である。
「この世界の片隅に」は、反対に意図せぬ「動き」に魅入られることがよくある。冒頭の幼いすずが買い物に出掛けるシーン、僕は船の下から逃げるようにすっと泳ぎ去る二匹の魚の「動き」を見ただけで、2度も泣きそうになってしまった。あれは自分でもわからない感情ではあったが、アニメとしての画面の隅々まで行き届いた動きへの配慮に思わず心が動いてしまったのだと思う。それもまた純粋に快楽なのだと思う。
アニメには絵が動くという快楽がある。それは技術が進みやり方が変わったとしても、画面に映る全てのその動きを人の意志によってコントロールしているということによるのだろう。
「リズと青い鳥」を見てきた。
「リズと青い鳥」という童話作品とそれに沿って書かれた楽曲、そしてそれを演奏するソリスト2人の物語である。
冒頭の「リズと青い鳥」の童話シーンは、少し残念に思えた。動きが、そこまでコントロールされたものではないように思えたからだ。とても世界観のある綺麗で繊細な線と色だっただけに、余計に残念に思えた。
しかし、物語が進むにつれて、どんどん「動き」に引き込まれていってしまった。「リズと青い鳥」は饒舌な話ではない。会話は少なく、アクションらしいアクションシーンもなく、ストーリーもとてもシンプルで些細だ。それでも、この作品は「動き」に魅入られてしまうシーンが、引き込まれてしまうシーンがとても多い。
ただの「絵」が息をして、囁き、おしゃべりをし、歩き、立ち止まる。そんな動きがとても魅力的で、その全てがコントロールされた表現として「感情」の「動き」を詳細に伝えてくる。
優れた俳優が身に纏う空気さえも演技しているかのように見せることがあるが、アニメーションはそれを意図的に行うことができる。「リズと青い鳥」は、それを実証して見せたかのような作品だった。
そして、この作品には「音」がある。この「音」もとても「感情」の「動き」を詳細に伝えてくれた。
アニメでしか表現できない、しかも映画でないと、劇場でないと味わえない作品だと思う。
「校舎になったような気持ち」
というのは、よくわかる。息をひそめてそっと見守る、そんな作品だった。
オタクが一時的に消費して終わりの作品にはしたくないなぁと思う。
13日目
リアニに行ってきました。
本当は次の日はイベントでDJとフードをやらないといけないので、行くつもりじゃなかったんですが、「寝なければ」行けることに前日くらいに気づいたので、当日、行くことにしました。
agehaはOUTLOOK.JP以来、二度目です。相変わらずagehaは千葉なので、東京に着いてからも遠いなって思いました。もしかすると東京ディズニーランドみたいに、あそこは東京かもしれません。
リアニメーションのことをブログで書くのは、これで三回目になります。
最初は、リアニ9。行ってないけど書きました。外の世界といかに調整するか、公共性とは?みたいなことを書いたような気がします。気がするだけかもしれません。
二回目は、リアニ10。これは行きました。レイブとフェスの違いとか、音のこととか、公共性が薄れたかもとか、なんかそういうことを書いた気がします。気がするだけかもしれません。
そして、今回、三回目を書くわけですが、思うに、実際に足を運ぶとどうしても「とりとめ」がなくなってしまう傾向にあるような気がします。やはり、イベントというのは体験で、体験というのは情報量が多いんだなぁと感じる次第です。当たり前のことですが。
ですので、理想論としてなるべくならば出来る限り理性的で抽象的でありたいと思うので、リアニ11の感想をブログに書くのを控えていたのですが、まぁ、そういうものかもなーと思い、つらつらと書き連ねていくことにしました。お付き合いいただければ幸いです。付き合わなくてもいいです。可愛い女の子とは付き合いたいです。
まず、メインアリーナのオープニングサプライズスーパーシークレットゲストに909stateさんがLIVEを行なったこと、これは本当にすごいことだと思うし、最高にクレイジーだと思います。色々な利害関係やらも絡み合いながら、すごく綿密に組まれたであろうタイムテーブルやセッティングの合間を縫って、思い切りドープな飛び入りという事件をぶちこんだ運営の胆力には頭が下がる思いです。
見逃しましたが。
見逃しましたが。
agehaのアリーナは流石というか、音がよかったです。
サブウーファーとの位置関係によって、低音とそれ以外のバランスが変わるのは古い設計なのかもしれませんが、自分の好きなバランスのところを探して、そこで音に浸ることができるので、楽しかったです。
しっかりとしたサブウーファーが置かれたクラブでアニソンを聞いた時にしばしば起こる現象として、低音が強くなりすぎて訳がわからなくなる、そんな楽曲も中にはありましたが、それはDJ側のサウンドシステムを使いこなすスキルの問題だし、大箱に慣れることで、そのうち解決されて行く問題だろうと思いました。
とはいえ、 agehaのメインで聞くHARDFLOORはキック1発でオタクを黙らせるくらいの音の違いがありました。胸が大きくて派手で踊るのが好きそうな女連れや、脇目も振らずにガン踊り勢というような、おそらくはHARDFLOORのファンなんだろうなって人たちもフロアにはそれなりにいましたが、ちょっとおしゃれ目?のオタクの人たちが大半で、それでも楽しそうに踊ったり体を揺らしたり、手をあげたり、と楽しんでいたのが印象的でした。純粋にデカイ音のキックはカッコいい。303のウネウネビキビキはカッコいい。思わずその場で303クローンをヤフオクで入札してしまうほどでした(結果、落札できませんでしたが)。
また、レーザーとVJが阿吽の呼吸で織りなす映像と空間の演出も息を飲む美しさは圧巻でした。それでいて音楽を邪魔するものでは決してなくて、これは大きな箱でないと得られない楽しさだなと思いました。あんまり良かったので、プレイが終わってからVJブースによじ登って「VJ最高!!!」とどう考えても少ない語彙で叫んでいました。今思うとセキュリティに怒られなくてよかったです。
面白かったのはBOXでした。
アニソン原曲の人が多かったのですが、音がそこまで無理して大きくした感じではなく、楽に聞けました。アニソン原曲の音は苦手な方なんですが。さらに僕の苦手なマイクを持って煽るDJさんもいたのですが、そのマイクも含めて耳が疲れないような設定で、とてもよかったです。リアニ@agehaには、いわゆるラウンジフロアがないので、音楽を聴きながら耳を休めるにはBOXは最適でした。ただ、アニソン原曲で嫌が応にも盛り上がる上、囲まれ感の強い場所に人がたくさん常にいるって感じなので、ゆっくり出来る感じではありませんでしたが。僕が見たときは、BOXのVJは抽象的でも幾何学的でも明暗の演出をしてるわけでもなさそうで、古いビデオジョッキーを見ているような感じでした。具象的で関連があるのかないのか微妙な映像が、ここがいわゆる「アニクラ」でないことを余計に感じさせてしまい、個人的にはとても疲れました。関連性を無意識下で探してしまうことで、集中できなかったです。ですので、目を瞑って聞いていたら、音はアニソンDJ特有の「関連性」で満たされていて、つなぎ自体もうまかったので、あんまりにも心地よくて体を揺らしながら寝てしまいそうでした。とはいえ、BOXは囲まれ感の強くて一番小さなフロアなので、ここでDJずっがプレイした時はすごかっただろうなって思います。そういえば、DJずっを遠目で見ました。頭が小さくて細くて可愛かったです(小並感)。
waterはEDMでした。EDM詳しくないので、断定はできませんが、多分、そういう感じだと思います。ここがアニソン原曲だと、絶対、SPLASH FREEとかかかってプールにSPLASHしてFREEになるヤツ続出だったと思うので、EDMでよかったって思いました。
ISLANDは色々なカラーのDJがいたように思います。でも、まぁクラブらしい音が鳴るフロアなので、クラブらしい音楽が流れていたと思います。多分、テクノとEDMです。詳しくないので、わかりませんが。
基本的に、4フロアあるので、ハードフロアの時以外は、くらげのようにフラフラと各フロアを回っていました。さすがはageha、それなりの音量を出していてそれぞれのフロアでは満足のいく鳴りなのに、各フロアの音が干渉せず、それぞれのフロアでそれぞれの音を楽しむことができます。BOXはアニクラ、アリーナはメイン感があって、ウォーターはEDM、アイランドはセカンドフロアって感じなのかなーとか思いつつ、全体では統一感があるパーティーだと思いました。確かめたわけではないのですが、「ゲスト」ってDJの方以外は、リアニメーションで過去に回したことのあるリアニ感のあるDJが多いのかなと思いました。○年ぶり⚪︎回目出場みたいな古豪強豪の揃ったベスト16くらいの春の甲子園みたいなメンツといえばわかりやすいでしょうか(わかりにくい)。つまりは、ハードフロアも含め「これこそがリアニ!」という感じのパーティーだったのではないでしょうか。
ただ、どこにいってもどこを切ってもリアニだという印象です。フロアを移動してもテクノ、フロアを移動してもEDMという瞬間があり、移動しなくてもよかったなと何度も思いました。BOXだけが安定して良質の音のアニクラで、結果的にBOXにいることが多かったように思います。
これはリアニ10では感じなかったことでした。
もっとも、僕が日頃偏った音楽ばかり聴いていて、そういう偏った音楽は聞けなかったから、世を儚んでいるだけなのかもしれません。フジロックに行っても、どれも一緒だったっていう可能性が僕にはあります。
リアニ10は、リアニの未来を僕に感じさせました。
リアニ11は、リアニの今と過去を僕に見せてくれたように思います。
リアニ11は、リアニメーションとしては珍しく、外部の目に晒されなかったナンバリングのリアニです。だからこそ、リアニらしさを思う存分発揮したリアニたりえたんでしょうし、そのことを最大限活用した様々な試みもあったことでしょう。僕の背は低いので、そんなに遠くの景色は見えませんが。
12日目
アニソンDJは何をつないでいるのか、みたいなことを書きました。
アニソンDJは、
1)アニソンの音楽的な要素
2)アニソンの音楽以外の要素(主にアニメに依存するもの)
をつないでいます。
どちらか一方の場合もありますし、両方の要素をつないでいる場合もあります。
さて、そこからです。
その先を考えましょう。
1)音楽的な要素をつなぐ意味はなんでしょう。
違和感なく、次の曲に移るため……
それは、主に「踊らせるため」「足を止めないため」ではないでしょうか。
その理由を考えると、BPMが同じだからと言ってノリの違う曲は繋がないはずです。
「セオリー」には理由があるはずですし、理由を理解しなければ、「セオリー」を守ることに自体に意味はありません。
では、
2)アニソンの音楽以外の要素をつなぐ意味はなんでしょうか。
なぜ、監督つなぎや、声優つなぎ、制作会社つなぎをするのでしょうか。
違和感なく、次の曲に……移れませんよね?
踊りやすくなるわけでも、足が止まらないわけでもない。
むしろ、そういう「意味」のつなぎが決まった時、フロアは足が止まることが多いような気すらします。
では、なぜ、「何の為に」、アニソンDJはアニソンの「意味」をつなぐのでしょうか。
セオリー自体は割と聞くのですが、その理由ってあまり聞いたことがないなーって思いました。
このセオリー、みなさんは何の為だと思います?
11日目
「もうブログ書くのやめたの?」という声を一部で聞きましたので、思い出したように書きます。
アニソンDJはむつかしいとかよく聞きます。
その理由に、こんなのを聞きます。
「BPMがバラバラ」
「間奏が短い」
「ジャンルが多岐にわたる」
「監督つなぎや制作会社つなぎなど、つなぎの意味を考えないといけない」
等々……
本当にそうでしょうか。
「アニソン」を「つなぐ」のは「むつかしい」のでしょうか。
まず、そこらへんを考える前に、アニソン以外のDJが言うところの「曲をつなぐ」を簡単に考えて見たいと思います。
DJが曲をつなぐのには、
1)BPMをあわせ、
2)EQをコントロールすることで違和感なく
3)徐々に次の曲へ移行
いかないといけません。
これをふまえた上で、上に出した例を考えて見ましょう。
BPMがバラバラだからつなぎにくい。
たしかに大変そうですね。でも、つなぐには、結局BPMの近い曲をつながないといけないので、一緒なんじゃないでしょうか。
BPMが違う曲をつなぐ場合、いろいろな方法がありますが、結局のところ誤魔化してるだけで、「つないでいない」んですから。
BPMが近い曲はつなげる。近くなかったらつなげない。
BPMがバラバラでも、つないでいないのなら、DJとして別に難しくなる要素ないと思います。
間奏が短いとどうでしょうか。
間奏が短いとたしかに繋ぐのは大変そうです。でも、時間的に短いのはどうしようもありません。徐々に次の曲へ移行するのは無理なのです。これも「つないでいない」のでないでしょうか。
ジャンルが多岐にわたるとどうでしょう。
アニソンDJに限らず、ジャンルを横断してDJをする人なんて、今はざらにいます。別にアニソンDJに限ったことではないのです。
さらに言うと、一般的なDJにおける「ジャンルを横断」って、他の曲をつないでいくように徐々にジャンルを繋いでいきながら変えていくんです。例えば、ガラージからグライムに横断していくときは、ガラージからグライムへの過渡期の曲や、グライムを経由したガラージとか、ボーダーレスな曲とか、一旦ウェイトレスを挟んで……とか、曲を繋ぐように、ジャンルをつなぎます。
アニソンの場合、音楽的に多岐に渡るのと、ジャンルを意識した曲が少ないのとで、ジャンルをつなぐのが極めて困難だと思われます。
そういうつなぎ方をすると難しいでしょう。
そこまでジャンルを意識してつないでいないのなら、やはり「つないでいない」のではないでしょうか。
ジャンルがバラバラでも、つないでいないなら、別にDJとして難しくなる要素ないと思います。
「監督つなぎや制作会社つなぎなど、つなぎの意味を考えなければならない」
その曲のアニメの監督の名前や制作会社とか覚えないといけませんね。それは大変ですね。曲の他にアニメの知識もたくさん必要です。アニメも見ていないと「主人公が嘔吐するアニメ」つなぎとか出来ませんから、アニメ本編も見なければなりませんね。大変そうです。たしかにアニソンDJ、むつかしそうですね。
でも、いくら同じ監督でつなごうが、制作会社でつなごうが、主人公が嘔吐した作品でつなごうが、曲はつながってませんよね? やはり「つないでいない」のではないでしょうか。
監督つなぎとかしても、曲をつないでいないのなら、別にDJとして難しくなる要素ないと思います。
では、アニソンDJは、むつかしくないのでしょうか。
ここまで書いておいてなんですが、僕はアニソンDJはむつかしいと思います。
ここまで書いてきたことと、結論が矛盾しているように見えますね。では、こう書きましょう。
DJとしては「つないでない」んだからむつかしくないですが、アニソンDJはむつかしいです……と。
僕が思うに、アニソンDJは曲以外の「何か」をつないでいるんです。
先ほど例に挙げた「嘔吐つなぎ」なんか、僕は聞いてて「げぇっ!」ってなりました。嘔吐だけに。
これこそ、アニソンDJの真骨頂と言えるかもしれません。
では、アニソンDJは何をつないでいるんでしょうか。僕には「これ」と言った答えの持ち合わせはありません。
もしかしたら、フロアや僕らの心をつないでいるのかもしれないですね。
※ 曲も、それ以外の「何か」も綺麗につなぐアニソンDJの方もおられます。それには、DJとしての知識と技術、アニソンDJとしての知識と技術、両方が求められます。