アニクラはじめました

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ダーリンインザフランキスを見ました。

ダーリンインザフランキスを見ました。

最初は、「いや、ロボット乗るのにいちいちセックスの暗喩をするのくどいし、暗喩としても直接的過ぎ。絶対設定倒れになるぞ」って冷めた目で見てました。

でも、24話見終わって、確信しました。

これはすごいものだぞ!!って。

以下、ネタバレ感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、ゼロツーがかわいい。

先日見たSSSSグリッドマンが同じトリガー作品でした。

こちらは過去のトリガー作品に比べ、むせ返るようなトリガー臭を薄め、無敵の人をはじめとする「今」の閉塞感を描写し、無敵の人に対するにはコミュニケーションしかなのではないか(それが無力だとしても)という、とても慎重な提案がなされていました。

その慎重さは、今までのトリガー作品をそんなに好ましくなく見ていた僕の目からは歓迎したいものだったし、その繊細な手つきは「今」を切り取るのは必要なものだと感じていました。

 

でも、トリガーはやっぱりトリガーでした。

トリガーらしさを全然失っていませんでした。

 

ダーリンインザフランキスは、過去のトリガー作品や、さらに遡ってそのルーツであるトップをねらえ!や旧エヴァ、新エヴァすら視野に入れ、下敷きにした作品でした。

いや、下敷きというの僕が感じたところを正確に表す言葉ではない。

ダーリンインザフランキスはそれらブラッシュアップすることをめざしており、それらに今の「魂」を入れ、次に向かおうとした。そんな風に感じています。

そういう意味では、下敷きというよりは踏み台にしたと言ってもいいかもしれません。

トリガー作品の魅力はそのスピードとパワーにありました。

しかし、それはやもすると、観客を置いてけぼりにしてしまうほどのもので、そして実際にそんなことが多々ありました。ダーリンインザフランキスではその特異な設定、しかも現代とはなんの関連性もなさそうな設定故になかなか入り込めないであろう観客のために、最初はゆっくりとまるで名作劇場や恋愛ものであるかのように描写を重ねていきました。

世界の謎を解き明かすことはヒロインであるゼロツーを知ることにうまく重ねてあり、主人公は自然にゼロツーとわかりあうために、歪んだ世界を知っていくのです。

そして、ゼロツーを、1人の女の子を抱きしめるために、彼は戦いを選びます。

ゼロ年代を代表する批評概念として「セカイ系」というものがあります。

セカイ系は、2人の男女の関係がセカイによって切り離され、2人の意思に関係なくセカイの問題に巻き込まれるというものが多いように思います(ここではその定義はこれ以上突っ込みません)。ここで重要なのは、主人公の意思はセカイや物語と切り離されているというところです。ここが、ゼロ年代の空虚感や閉塞感、無力感を表していたと思うのですが、いかんせん、物語自体のパワーはセカイ系では弱いものとなってしまいます。だって、セカイ系で人生が変わったって人いないでしょう?良い悪いではなく、そういう物語なんです。セカイ系は。でもだからこそ「リアル」に感じられたんだと思います。

 しかし、ダーリンインザフランキスは違います。

フランクスは男女2人でないと動かすことはできず(この設定に対する多様性へのPCな配慮もなされています)、そして、何より主人公はゼロツーのために自ら戦いを選びます。

安彦良和の劇場版「アリオン」で主人公は民衆を救うためではなく、ヒロイン・レスフィーナを助けるためだけに権力に立ち向かいます。それでいいんですか?と記者に問われた安彦良和監督は「それでいいんです」と答えます。民衆もそれでいいんだと。

ダーリンインザフランキスでは、主人公以外の子供たちの戦いも描かれ、それぞれに理由を持って戦いに挑みます。みんな、自分の好きな人のために、一緒にいたい人のために、戦います。「それでいい」んです。

あまりにも前時代的で、ベタで、ストレートで、とても恥ずかしい物語。

それしかセカイ系のような「リアル」には対抗できない。

そんな製作者の強い意志がダーリンインザフランキスには感じられます。

ダーリンインザフランキスで語られたような「大人の未来社会」が描かれたアニメに「フラクタル」があります。

フラクタルでは、主人公は最後まで決断しませんでした。それが「リアル」だったからです。そのことで「震災後、その姿勢は支持できない」と制作に参加した思想家は批判しました。アニメ自体震災前に企画されたものであまりに言いがかりでしかないのですが、そう言った批判を覚悟してでも、決断しないことを監督が選んだのは、それがリアルだったからです。

もちろんこの「リアル」は生きていて、今の時代に決断すること、それにともなうベタやマジを引き受けることで「リアル」を失うことは想像に難くない。

それでも、トリガーはベタとマジを真正面に引き受けて、何度も何度も戦うことを決断した。それも自分と愛する人のために。

そういった物語のもつ力強さは、トリガーらしさであり、トリガーの信念なのだと思う。

その信念を貫くために、ダーリンインザフランキスは、勢いだけでなく、オタクへのフックを用意し、周到に計算して作られているように思う。その執念はすごいと思う。

ダーリンインザフランキスは2018年を代表するアニメだと思う。

なにより、ゼロツーかわいい。

SSSSグリッドマンを見ました。

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SSSSグリッドマン(以下グリッドマン)を見ました。
全編通して見た今でも、第1話のBGMが薄い静かな雰囲気がとても印象に強く残っていて、おそらくその印象はクライマックスに近いあたりまで作品を支配していたように思います。その作品を覆っていた静けさは「閉塞感」につながっていて、登場人物の一見無責任に感じられる感情がこもっていないような「声」とともに、とても「今」に感じました。

以下ネタバレ感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


グリッドマン世界にとって怪獣とはなんなのか。
世界を覆う霧の向こうには常に怪獣が、背景のようにのしかかっています。しかし、住人たちにはそれは見えず、その影に怯えることもありません。怪獣は街を壊し、人を殺し、家を、ビルを壊します。しかし怪獣は役目を果たすと消え、ビルや家は元どおりとなり、人の記憶からも消えさります。グリッドマンの怪獣は決して「生活」を「世界」を壊すことはありません。
グリッドマンの怪獣は、「生活」を壊し「世界」を壊す円谷プロの怪獣とは明らかに異なります。
円谷的怪獣とは異なり、グリッドマンの怪獣は「見えない」のです。見えないと書くと「いや、ネロンガとかサァ……」とか面倒になりそうですね。グリッドマンの怪獣は多くの人たちにとって「存在しない」のです。不可視であり、不可知なのです。対するヒーローも、その立ち位置は円谷的ヒーローとは異なるものとなります。しかし、怪獣と相対するポジションであるというところだけは変わっていません。
怪獣とは何なのか。

その問いに対する答えは物語が進んでもなかなかはっきりと語られません。常に疑問詞がついた状態で語られていきます。それがグリッドマンという物語の最大のミステリーであり、前半はこの謎を中心に話が進んでいきます。そして、必然的にヒーローであるグリッドマンの存在も謎のままです。従ってグリッドマンもその中の人も沈黙せざるをえません。世界の人々が見えない怪獣を語る言葉を持ち得ないように。
この物語の序盤はミステリーの形態をとって進みます。
世界にとって、怪獣は、その出現によってただ人を殺す(消す)だけです。そして、その事実を知る主人公は、その犯人を突き止めるために行動しています。怪獣は単なる凶器でしかありません。物語の序盤において、怪獣とグリッドマンの戦いは、劇中劇に過ぎず、ただ人が殺されていく、あるいはそれを食い止めるという現象を象徴しているだけに過ぎません。円谷プロ的な怪獣とヒーローの敵対関係は、象徴として効果的に利用されているといえます。
さて、グリッドマンは創作ジャンルとしてはミステリーであり、怪獣は凶器に過ぎないとすると犯人である新条アカネの「動機」はなんなのでしょうか。
僕がグリッドマンを見たときに、真っ先に連想したのが、ドラえもんの「独裁スイッチ」であり「もしもボックス」でした。
どちらもその寓話性とインパクトで有名なエピソードなので知っているものとして話を進めます。
新条アカネは「独裁スイッチ」を押すと発射されるミサイルの代わりとして怪獣を作り、世界へ送りだします。そして、怪獣は「独裁スイッチ」で殺された人を消えたかのように見せかけるために世界を再編します。まるで、「もしもボックス」に「あの人がいない世界にしてください」とお願いしたかのように。

「独裁スイッチ」という物語は、世界の全ての人間を殺してしまったのび太が誰もいなくなった世界泣き叫ぶという形で幕を閉じます。「もしもボックス」という道具は、願いごとが実現している世界を創造し願い主を送り届けるシステムであると仮定されます(知らんけど)。どちらも、誰もが胸の内の黒い感情から「欲しい!」と思う道具であるとともに、結果として孤独となってしまう禁断の道具ということをその寓話性から、あるいは直感から多くの人が知っています。もし、それらの道具を手に入れ使用してしまったとしたら、道具の使用者はその世界では唯一の絶対者としての神となるとも言えるし、世界は複雑性を失い薄っぺらい書き割りのようになってしまうでしょう。
世界の多様さ複雑さが怖いものと感じてしまう思春期において、「世界は書き割りのようなニセモノに過ぎないのではないだろうか」「世界に人間は自分だけなのではないだろうか」また逆に「自分は誰かの夢に過ぎないのではないだろうか」という考えは、自分の無力感や万能感を根拠に割と誰もが一時は描く妄想だと思うのですが、こういった妄想と「独裁スイッチ」と「もしもボックス」の描く世界観は親和性が高いと思います。こういった妄想は他者とのコミュニケーションを重ね、世界と交渉を続け、社会と関係を築いていく中で現実味がなくなって消えていくのですが、そう出来なかったが故にそういった妄想に囚われてしまう人もいます。
僕は、ひろゆきが名付けた「無敵の人」とはそういう人なのではないかと感じています。失うものが何もないという状況が、全く逆の「無敵」という言葉と結びついてしまうのは、そういう誰もが感じていた神に似た傲慢な「孤独」を思い起こさせてしまうからではないでしょうか。
新条アカネの身勝手で無差別な殺人の「動機」は、「無敵の人」が犯行に及ぶそれと同質のものに思えてしまいます。
彼女は可愛い女の子で胸も大きくてお金持ちでちょっとオタクなところもあって友達も多くてモテて幼馴染みもいます。アニメにおいて見た目や属性は重要で、つい、そういう要素に流されがちですが、もしそれらの要素を少しだけ変えたとしたら、例えば、新条アカネが貧乏だったとしたら、また感じ方は違っていたことでしょう。彼女はとても「無敵の人」と近しいところにいると思います。

でも、実際には新条アカネは神であり、彼女の孤独は本当に神の孤独だったわけで、「無敵の人」に共通する社会的な困窮も新条アカネにはない以上、「無敵の人」と見るのは強引かもしれません。しかし、物語を支配している閉塞感とあいまって、僕にはやはり同質のものに思えてしまいます。

物語の後半はミステリーとしての性格を失います。「誰でも良かった」という動機、超越的な凶器では推理は成立せず、ミステリーとなりえないからです。
前半では力を持たなかった円谷プロ的な構図が中心に据えられ、トリガーお得意のバトルが物語を占めていきます。そこに「神殺し」という葛藤はありません(神とは超えるべき存在であるという哲学がトリガーにはあるからかもしれません。割とそういう話多いし)。

アンチくんの存在意義をめぐる葛藤や、謎の怪獣少女、どういう設定かよくわからないアレクシスケリブや、無口だけどやたら存在感あるキャリパーさん、最後まで自分の意思がなかった響、あまりに無責任な大人や六花のお母さん、なんでいたかわからないメガネ君など、いろいろありつつ、物語は「神の死」でもって終りを告げます。
そして、最後、神を本当の意味で救おうとするのは六花でした(……というか六花ってキャラの名前、アニメに多くない?六花といえば「夏雪ランデブー」なのに)。

これは孤独な神(無敵の人)を救うのは、コミュニケーションしかないという示唆でもあると思います(結果、救えませんでしたが)。
グリッドマンにおいて、六花とアカネだけが声優の演技の質が違います。アニメらしいというより、ささやくような、独り言のような、二人だけ妙にリアルな演技。
その異質さからも、グリッドマンは、アカネと六花の、そう多くはないなにげない会話のための物語なのだと考えられます。

だいたい書きたいこと書いたし疲れたから終わる。

 

 

 

 

 

 

 

2018年のベストバイ的なあれ

2018年に買ったもので、なんかよかったものをなんとなく書きます。

 

【ジェットボイル】

トランギアのストームクッカー持ってて愛用してるんだけど、お湯が早く沸くのはいいと思うし、バイクで行った先でコーヒー飲むだけとかにはいいかなって思って、なんか一番安い廉価版のやつ。とにかくお湯が早く沸く。

お湯を沸かすのに特化するなら安いやつでいいかと割り切った。

別に困ってないのでこれでよかったんだと思う。

ただ、やっぱこれだけで済ませられるって感じではないので、色々ご飯作るならストームクッカー持って行く。

 

【ネイチャーハイクの安いテント】

アマゾンで一万くらいでグランドシートからフライシートから全部ついてて気になったので買った。一泊しかしてないけど別に困らなかった。

 

GSXR125

スズキのバーゲンプライスバイク。

高速と自動車専用道路に乗れない以外の弱点が見当たらない。

とにかく軽快。とにかく維持費が安い。とにかくたのしい。

チープだけどチープすぎず、とても気軽に付き合える。

でも、十分速いし、十分こわい。

いいバイクだと思います。

まぁ荷物載らないし姿勢はきついし高速と自動車専用道路使えないから遠出はできないけどね。

 

【FIVEのグローブ】

バイクのグローブ。しっかりしてるし、安全そうだし、暑くも寒くもないし、丈夫そう。程々の値段でしっかり元が取れる感じがいい。

 

 

SP404SX

言わずと知れた安定の定番サンプラー

これじゃないとできないライブができるし、仕組みは簡単、でも奥が深い。パソコンとの連携も取りやすいし、取り回しも悪くない。値段もそこそこだし、 なるほどこれは名器だわって思い知らされる。

あと、痛機材化しやすい。これ重要。

 

SHOEIのフルフェイス】

これもバイク関連だけど、shoeiのブティックでフィッティングしてもらったフルフェイスヘルメット。本当に被り心地が良くて、前傾姿勢も取りやすくなった。前傾姿勢の取りやすさからGSX-R125乗るときには必需品。

 

omnisphere

ソフトシンセ。色んな音が出て、音も良くて、検索もしやすい。

くわしいことはしらないけど、買ってよかったって思う。

 

【studio one4】

コード機能とか多分いい感じに使えそう。impactも使いやすくなったし。

 

helix pico

自分で半田付けした第一号自作キーボード。

すっごくわかりやすい説明書と作りやすい設計。

なによりかわいいのがいい。

 

と、こんなかんじかな。

また思いついたら、書き足しときます。

自作キーボードはじめました(その3)

というわけで、自作キーボードを購入してしまったがために、タッチタイピングを日々練習中の僕です。


まぁタッチタイプはもう練習するしかないのですが、問題はキー配列の設定です。
今日はそこらへんをあいまいに少しだけ書きます。


自作キーボードにはpro microって小さなコンピューターが載ってます。そこにqmk_firmwareっていう、なんか素敵なものでプログラムを書き込むわけです。


はい、なにもわかってません。


でも、右往左往しながらなんとなくできました。よかったです。

 

docs.qmk.fm


辺りを参考にしました。


僕はmacのことしかわかりませんが、homebrewってのに書いてある通りにして色々となんか必要なものをダウンロードしてください。コマンドプロンプトになんかホームページに書いてあることコピペして実行したら勝手にやってくれます。
ただ、ムッチャ色々あるみたいで、すごく時間かかるので、気長にコマンド画面を見ててください。途中になっちゃうと、ビルドしたり書き込みするときに「そんなこと言われてもそんなプログラム知らんし」って感じのエラーが出ます。英語で書いてあるのでこわいです。


さっきのリンクのページに書いてあるもののうち、テキストエディタmacにはテキストエディットで代用できるので必要ないっぽいです。QMK TOOLBOXも何に使うのかわかりません。


set up QMKってところに書いてあるコマンドをターミナルに打ち込んで実行してください。どうやらqmk_firmwareをインストールしてくれるっぽいです。
util/qmk_install.sh
というのも大事な呪文っぽいのでちゃんと実行してください。
割と時間がかかったような気がします。


これで、qmk_firmwareがインストールされた感じがするので、次はビルドです。ビルドはなんか一生懸命作ったキーマップをpro microに書き込める形にする作業とかだと思います。


cd qmk_firmware ってターミナルに打ち込んで実行してから
make キーボード名:キーマップ名 って実行してください。

エラーって出たら、エラーです。
[ok]ってたくさん出たら大丈夫です。

 

ビルドができたので次は書き込みます。


自作キーボードとUSBで繋いで
make キーボード名:キーマップ名:avrdude
って書き込みます。
少しうごきはじめて
………が並び始めたら、自作キーボードのリセットを押してください。
これを左右行ったらキーマップ通りの配列になっています。

 

で、キーマップですが、ググるといろんなサイトが見つかるので、ややこしいことをしなければ、そこまで困らずにできるとおもいます。
keymap.cってやつをなんとかくいじってはビルドをして確かめてみる。
エラーが出たらアンドゥしてやり直すって感じでやってくといいと思います。
難しいことしなければ、C言語?とか知らなくても大丈夫っぽいです。多分。

とにかく、自作キーボードの組立説明書であるビルドガイド(公式、非公式問わず)やブログを探してれば、そのうち、正解にたどり着きますよ。きっと。

苦労すればするほど手に馴染んで理想のキーボードに近づいていきます(多分)。

たのしいですよ(多分)。

自作キーボードはじめました(その2)

そうして、我が家に自作していない自作キーボードが来たのです。

booth.pm

(これは新型機で、うちに届いたのはクラシックと呼ばれるものです)

 

キーは全部で42個しかないです。キーが少ないと言われるHHKBより少ないです。具体的には、左手で使う方なんて、アルファベット以外は6個しかない。

そんなのどーすんだよって感じですが、レイヤーを屈指するわけです。レイヤー切り替えボタンみたいなのを設定して、それを押しながらキーを押すと別のキーになるよう設定できるわけです。まぁ、仮想キーみたいなもんですね。

こうなると、実際の物理的なキーの数とか制約ではなくなるわけですよ。逆にキーが少ない方が正義なんじゃね?って気分になってくるわけですよ。あくまで気分だけの話ですけどね。

で、いくら変な形してキーが少なくても、キーボードなので、つないでキーを叩くと普通に文字が打てるわけです。ところがキーに書いてある通りの字が打てるとは限らないのです。

キーに書いてあるのはアルファベットとなぜかロシア語(多分作った人の趣味)。しかも、修飾キーがそもそもない。

ちゃんと打てる気がしない。

「自作キーボードってハンダとかしないといけないんでしょう?」と思うわけで、すでに完成した自作キーボードなら問題なく使えるんじゃない?と自然な思考の流れとしてなるわけですが、そうじゃなかったのです。その認識は甘いのです。甘かったのです!

 

完成した自作キーボードを前にした我々が直面する問題は、

 

1)キーマップが普通じゃない

2)キーに書いてある模様とキーが一致するわけではない(見ながら打てない)

 

つまりは……

 

1)タッチタイピングできないと(ほぼ)使えない

2)キー配列を自分で設定しないと使いやすくならないし、そもそも覚えられない

 

自作キーボードって、キー配列を自由に設定できるんです。

どの程度自由かっていうと、かなり自由。ほぼ自由。出来ないことがないってくらい自由……というと言い過ぎですが、たとえば、Aの隣にGを置こうが、全部Altキーにすることすら可能なわけです。「長押しはctrlで普通に押すとEnterキー」とかもできるわけです。しかもレイヤーもどんどん重ねていくこともできるわけです

で、その設定って、C言語らしいんですよね……

それをしないと満足には使えないっぽい。

その上でタッチタイプ必須。

 

 

マジかー

 

自作キーボードはじめました(その1)

僕が自作キーボードが気になりはじめたのは、それがスピリットキーボードであることが多かったからであるように思う。

別にプログラマーでもなく、ライターでもないのに妙なところで凝り性な僕は、なぜかHHKB プロ2を持っていた。HHKBは、紛れもなく最高のキーボードの一つだ。事実、長年使っていて、不満らしい不満もなく使っていた。

購入してから静音性能を強化したタイプSや、ブルートゥース機能を持ったものまで現れたが、買い替えを検討するまででもなかったし、そもそも気軽に買い替えできるような値段ではHHKBはない。せいぜい、キートップを白色のものに変更しようかアマゾンを見て悩むくらいであった。(何を考えたか購入時に「そのうちにタッチタイプできるようになるだろう」という甘い目論見で印字が非常に見にくい「墨」タイプのものを買ってしまっていた)(そしてその思惑は外れ、現在に至っている)

しかし、そんなHHKBで満足していた僕でも唯一気になっていた使い方がある。HHKB二台使いだ。

HHKBを二台、一台を左手専用、もう一台を右手専用として使うのだ。

普通の人は、それに何の意味があるのだろう?と思うだろう。しかし意味があるのだ。二台あると、右手と左手を好きな場所に……具体的には少し離して、肩幅くらいの自然な位置に……配置することができるのだ。

しかし、プログラマーでもライターでもない僕は、「そこまですることはないな」と思っていた。そう、この時点ではまだキーボードはただの道具だったのだ。

さてそんなある日、ツイッターでフォローしていた方がERGODOX EZを購入する。その方も偶然HHKBを愛用している方だった。なんとなく気になって調べてみると、ERGODOXは「自作キーボード」の一つで定評のあるモデルのようだ。

自作キーボード!

キーボードなんて作ってどうするの?と思わないでもないが、確かに、二つに分かれているキーボードなんてあんまり見たことない。ないものなら作るしかないというのも道理だ。

そんな自作キーボードの中でもERGODOXは左右分離のスプリットモデルで、有名な方も使用しており、完成度も高いようだ。しかも、EZは完成品も売っていて、フォローしている人の評判もHHKBと比べた上で上々と来ている。そんなの興味を引かないわけがない。

というわけで、欲しいなぁと思いつつ、なんせお高いので手を出せずに悶々とした日々を送っていたわけです。検索などで無駄に溜まっていくERGODOXをはじめとする「自作キーボード」の知識。

せめて、中古でもないかなぁと検索していた中、引っ掛かって来たのがメルカリです。

そう、メルカリには割とそういうニッチな商品が出ていることがあるのです。

それでも、ERGODOXは高かった。

落札済みも含めて相場は三万あたりのよう。どう考えてもキーボードに出す金額ではない。しかもキーボードでも音が出ない方のキーボードですよ?(音が出るキーボード、つまりシンセなら三万は安いけど)

そんな中、掘り出し物が出ます。

コルネキーボード。crkbdの完成品。

どうもLEDの取り付けに失敗したらしく一部ちゃんと光らないらしい。でも、キーは全部反応するって書いてあるし、何より安い。光らないってだけで、自分で作ろうと思った場合のパーツ代より安いのだ。今のHHKBも別に光らないけど光って欲しいと思ったことはない。別にそれで安いなら、「オールオッケー平気だよ」って感じだ。

つまりは買わない理由がない。

早速、ポチって入金して、数日してお家に初めての自作キーボードが来たわけです。

まぁ、この時点で「安い」って言ってますが、中古のキーボードに普通の人なら払わない値段を払っているわけです。すでに金銭感覚が一部麻痺していたわけですね。

そうして、ウチに自作していない自作キーボードが来たのです。

反応の少ないアニソンDJ論

アニクラにおいて、アニソンは少なくとも二つのレイヤーをもつ。

その楽曲がどのアニメの中でどのように使われたか……そう行った情報を含むアニメのレイヤー、そして、楽曲として当たり前に内包される音楽的な情報である楽曲のレイヤーだ。アニソンDJは、その2つのレイヤーを同時に、あるいは意図的に片方を扱い、曲をつないでいかなければならない。

本来、DJとは曲を違和感なくつないでいくことを良しとする。楽曲の持つ音楽的特性の似通った曲を選ぶ事で違和感なく曲と曲とをつなぎ、曲を変えていくことで大きな展開を作ることにより、フロアにドラマを生みだしていく。そのことがDJの目的ではないだろうか。

アニソンDJも例外ではなく、曲をつないでいるという認識があるのであれば、アニソンの持つ楽曲としてのレイヤーは無視できない。よくアニソンは楽曲としてのジャンルが広いので難しいとの旨の発言を見るが、これは違うジャンルを繋がなければならないという意味ではなく、幅広い音楽性の中から似通った部分を見つけ出し繋がなければならないという意味でなければならない。楽曲的に共通点がなければ、それは並べただけにすぎず、DJ的につながっていない(ミックスできていない)からである。当然のことながら、これはロングミックスのみならず、カットインでも言える事である。

アニソンDJの場合、楽曲以外にもう1つのレイヤーも当然、無視できない。アニソン特有であるアニメのレイヤーである。アニメのレイヤーと楽曲の音楽性の間に、相関関係は基本的にはない。無関係だ。アニソンDJは全く無関係の2つのレイヤーを扱わなくてはならない。これは、何かいい例えを出したいところだが、上手い例えが見つからないくらい困難な行為である。
しかし、この2つのバラバラで相関性のないレイヤーを統合するための1つの思考法がある。これに関しては考察を進めた上で後述しよう。


アニソンは2つのレイヤーを持ち、それ故にアニソンDJはその2つのレイヤーを扱わなければならないと書いた。その1つである楽曲のレイヤーにおけるDJ行為に関しては、アニソン以外の他のジャンルのDJのノウハウが参考となるだろう。
しかしここで注意しなければならないのは、アニソン以外のジャンルにも、楽曲以外のレイヤーが存在し、DJはそのレイヤーもなんらかの形、多くは「選曲」に関わっているということだ。 アニソン以外の楽曲にも楽曲自体が内包する音楽性以外の情報が存在する。その楽曲の作成者や歴史的な背景、地域、消費形態などそれは多岐にわたる。DJは、そのプレイでストーリーを作る際に、その2つ目のレイヤーを使うことがある。例えば、同年代の楽曲を続けてみたり、同じ地域の製作者を続けてみたり、あるいは同じレーベルばかりをかけたりというプレイは、なんらかのストーリーを生む。そして、そのストーリーはフロアにも共有されることがある。それは、フロアにおけるその情報の共有の度合いによって、伝わり具合が変化する。
 その情報の共有具合が特に強く、結果、フロアを支配する場合、それはそのジャンルにおいて「お約束」となり、DJのプレイとフロアをその強度によって影響下に置く。これは、音楽的な情報とは違い、感覚的、瞬間的に共有ができない。これは知識であり、知識の共有によってのみ、もたらされるものである。楽曲に付随する音楽的な情報以外の情報…中でも共有されるべきとされる、いわば基礎知識としての情報は、ジャンルによって違いがあり、クセ、特色として、そこかしこに存在する。 アニソンDJが他のジャンルのプレイを参考にする場合、DJとして普遍的なものであるのか、ジャンル特有のものであるかは意識した上で取り入れなければならない。

長々と書いたが、アニソンにも、これらのレイヤーは存在する。アニメのレイヤーでもなく、楽曲の音楽的情報でもない、その他の情報……しかし、それらはアニメのレイヤーのもつ共有の強度に比べると、きわめて弱いものであり、多くの場合は無視あるいはアニメのレイヤーと同様のものと扱ってよい。なぜなら、フロアもまたその2つを区別していないからだ。

ジャンル特有の知識「お約束」は、他のジャンルへの応用はできない。しかし、それらが、そのジャンルらしさを構成する1つであることを意識し、そのらしさを意識的に取り込むことは出来るだろう。 


DJは何をしているか?

この問いに対して、これと明確に答えられる者はいないだろう。DJの目指すところは人それぞれであるし、またジャンルや状況によって様々な答えが考えられるからだ。 しかし、個別論ではなく、概念として区別して考えていくことは可能だろう。
ここでは、その思考の手がかりとして、1つのパーティーを1単位として捉え、視野の大きさで、DJの思考や行為を分けて考えてみたい。

まず、パーティー全体を見る視野だ。DJはパーティー全体を見て、そのコンセプトや雰囲気、客層、機材、音、タイムテーブル、様々なことを情報として捉え消化し、自らのプレイに落とし込んでいく。もっとも大きな視野、これを軍事用語やビジネス用語として馴染みがある言葉に例え「戦略レベル」と呼ぶことにしよう。

次に、1人のDJに割り当てられた時間をいかにプレイするか?という視野だ。先の戦略眼から導かれた所与の勝利条件にもっとも近づくために、いかに時間を使うか。これを「作戦レベル」と呼ぶこととしよう。

そして、もっとも小さな視点。最適解として出された作戦を実行するための視点。「戦術レベル」だ。時間を軸として考えるならばとても短い時間、具体的には、作戦として自ら選んだ要素の取捨選択や小さな決断、そしてそれを実行する技術、それが戦術レベルの思考だ。

このように、DJは時間によって「何をしているか?」が変化している。 そして、戦略・作戦・戦術という区切りにおいて、実際に行なっていることと照らし合わせ考えてみると

戦略レベルの思考=社交

作戦レベルの思考=選曲

戦術レベルの思考=曲をつなぐ技

となり、それぞれに必要な技術は、DJ社交術であり、DJ選曲術であり、DJミックス技術となる。

そして、それらを論じるのがDJ論となるわけであるが、パーティー全体における社交術、戦略面まで含めたものは「広義の」DJ論、作戦や技術を扱ったもの、つまり選曲やミックス技術を扱うものは「狭義の」DJ論と言えるかもしれないだろう。これも混同させると議論の混乱の元となる。もっともDJ諸氏は議論などしないかもしれないが。

さて、ここまでの考察とこれらを付き合わせていくならば、主にアニソンDJ論として上がりやすいものは、「狭義の」DJ論であり、アニソンが持つ2つのレイヤーにおいて、アニメのレイヤーを主眼として扱うのは「作戦レベル」、楽曲のレイヤーを扱うのは「戦術レベル」だと言えるのではないだろうか。
 

さて、ここからはしばらく「狭義の」DJ論について話を進めたい。アニソンDJ論ではなく、DJ論というからには、一般的なDJについての考察、だ。

DJプレイにおいて、選曲はミックスに大きく影響をあたえる。これは当たり前で、次に何の曲をかけるかによって、ミックスは大きく変わる。BPMは同じなのか、違うとすれば何パーセントなのか。コードは?曲調は?キックの位置は?そういった曲自身の関係はミックスを大きく左右する。これは考えるまでもない当たり前のことだ。

一方で、逆はどうであろうか。 ミックス技術は選曲に影響をあたえるだろうか?

答えはイエスである。ミックス技術は、選曲に影響をあたえる。それは影響を与えるという言葉では弱いと思われる。ある意味においては束縛するとすら言ってもいい。
DJにおいて、綺麗にミックスできるか否かは大きな問題である。極端にBPMの違う曲は選曲から外すし、コードがあまりに違う曲も同様である。キックの配置が大きく違う曲も忌避される。それらはミックスがしにくいから(もしくは不可能だから)である。

これらの技術にはDJ個人の「技術」もさることながら、機材的な「技術」も含まれている。

例えば、ヴァイナルによるプレイであれば、機材的な制約は大きくなり、選曲を拘束することだろう。機材による選曲への拘束は、不自由だと捉えることもできるが、特色と捉えることもできる。

もちろん「作戦的」にその選曲が、大きな意味を持つ場合は、そちらを優先されることもあるだろうが、一般的なDJプレイではやはり少数であるジャンルが多いだろう。

では、あらためて何故「綺麗なミックス」はより優先されるべきなのだろうか?

パーティーの特色やタイムテーブルや雰囲気など様々な要素から考えた「戦略レベル」から最適解として導き出された「作戦レベル」としての選曲の正解よりも、「綺麗なミックス」が優先される「べき」なのであろうか。

この問いは「なぜ、DJはミックスをするのか?」「なぜ、DJとセレクターの違いが存在するのか?」「DJとは?」という一見難しい問いに繋がってしまいそうではあるが、フロアを見れば一目瞭然だと思われる。 DJに「綺麗なミックス」が求められるのは、単にフロアが踊り続けているからである。

そもそも、ミックスに必要とされる要素であるキックの配置やBPMの一致など、ほとんどその全ては、フロアが「踊り続ける」ために無駄に違和感を与えない為に必要な要素である(しかしながら、ある種の違和感がフロアに与える特別な影響もある)。それらが必要最小限に満たされなければ、フロアは踊り続けることができない。フロアを踊り続けさせる為に、戦術レベル(ミックス術)の要求は、作戦レベル(選曲)に影響を与える。しかしその上でも、選曲に与えられている自由度はまだまだ多く存在する。そして、またその拘束をネガティヴに捉えるべきではない。その戦術レベルでの要求という縛りがあるからこそ、選曲はフロアを躍り続けさせるという本来の目的から逸脱することがなくなるからだ。それは、選曲の思考が常にミックス術の要求に隷従しているからだ。

では、アニソンDJにおいてはどうであろうか。

戦術レベル(ミックス術)と作戦レベル(選曲)はどのような関係にあるのであろうか。

アニソンには2つのレイヤーがあることはすでに指摘した。アニメのレイヤーと楽曲のレイヤーだ。あらためて、この2つのレイヤーが選曲やミックスにどう影響を与えるか、考えてみたい。

アニメのレイヤーはミックスの行い易さには関係がない。これは考えてみれば当たり前のことだ。幼女向け魔法少女アニメの楽曲と大人向け難解ロボットアニメの楽曲であっても、BPMやキーなどミックスに必要な諸条件が合えば、ミックスは可能である。楽曲のアニメのレイヤーはミックス術には関係しない。そして、楽曲のレイヤーはミックスに当然、直接影響を与える。
アニメのレイヤーは選曲に影響を与えうる。そして、楽曲のレイヤーはミックスのし易さを通じて、間接的に影響を与える。

ちなみに、アニソン以外の楽曲にも2つ目のレイヤーは存在することはすでに書いた。作曲者、ジャンル、制作年、その他、その曲にまつわる楽曲そのものが内包しないその他の情報だ。そのレイヤーも選曲にのみ影響を与える。
この2つに違いはあるのだろうか。

これら楽曲が内包する音楽性ではない情報は、「フロアの共有度合い」「強度」によって、拘束の度合いが変化すると、すでに考察した。

多くのアニソンDJが活躍する場である「アニクラ」では、どうであろうか。

アニクラにおいて、アニメの知識はかなり強くフロアで共有され、かなりの強度を持っていると思われる。それも、おそらくは他のジャンルと比較にならないくらいに。

したがって、アニクラでは、楽曲におけるアニメのレイヤーが選曲を強く強く拘束する。

この拘束が、俗にアニソンDJや一部のフロアで共有されている「監督つなぎ」「制作会社つなぎ」「ゲロを吐いた女の子が出てくるアニメつなぎ」などの『アニメつなぎ』という拘束である。アニクラにおいて『アニメつなぎ』は選曲を強く拘束する。その拘束の強さは、ミックス技術が要求するそれよりもはるかに高い場合が往々にして、ある。

では、アニソンDJはミックスよりも選曲を重視してもいいのだろうか。一般的なDJのセオリーを無視して、そうすべきなのであろうか。

その難しい問いは、先ほどもそうしたようにフロアを見ることで解決すればいいと思う。

あなたが見るアニクラのフロアは何を求めているのであろうか。「踊り続けること」であろうか。それともそれ以外であろうか。

もし、あなたの「アニクラ」のフロアが「踊り続けること」を希求するのであれば、ミックスを優先して選曲を行えばいいだろう。
もし、あなたの「アニクラ」のフロアが「それ以外」を求めているように見えるのであれば、端的に言ってミックスよりもアニメのレイヤーを重視して選曲すればいいだろう。

ミックスの良さ=踊り易さは、楽曲に内包するものから生じるので、フロアの知識量や経験値に依存しない。きわめて「踊る」「体を動かしやすい」という身体的なものである。ゆえにフロアに知識の共有やそれに由来する拘束が強くなされない「一般的な」クラブでは、ミックスの良さがDJ術において上位概念となる。

しかし、アニクラでは、必ずしも身体的なものが上位概念とはならない。まず多くの場合、「アニメ」が好きな人たちがフロアを占めているので、知識を前提とする「アニメ」というレイヤーが非常に共有されやすい。そして、それはVJによる具象的な映像・空間演出によってさらに強化される。そして、具象的な映像は踊る足を止める傾向にある。結果、クラブを支配する身体的快楽を薄くする。

このようにして、アニソンDJにおいて、ミックス術と選曲の上下関係が逆転が起こりうる。

フロアにおける「知識」の共有という一体感が「踊る」という身体的快楽を上回るその時にそれは発生する。

アニクラの専門用語で言うところの、「わかる」「それな」である。

したがって、アニクラにおいては、戦略(DJ社交術)>作戦(DJ選曲術)>戦術(ミックス術)という概念の上下関係が成り立ちやすい事が想定される。それにより、一般的なクラブより、戦略レベルの優越がDJプレイの良し悪しを大きく左右するのではないか?という仮説が成り立つが、いかがであろうか。

この仮説に関しては、有識者の見解を待ちたいと思う。

次回はアニクラにおけるオタクの身体性の逆襲としてのオタ芸、テキーラ、絶叫について考察したいと思う。嘘です、そんなのしたくないです。

(おわり)